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2016年9月5日
「病気と付き合う」ということ
「病気と付き合う」ということ
「人生という無色の編糸には、殺人と言う真っ赤な糸が混ざって巻き込まれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで1インチ刻みに明るみにさらけ出して見せるのが、僕らの任務なんだ」

これはシャーロックホームズの"A study in Scarlet(緋色の研究)"の一節です。

医学者の立場で、私は私なりの「緋色の研究」をここ10年ほど重ねるうちに「本当に真っ赤な糸を分離することが我々の使命だろうか」「健康な人は果たして無色の編み糸と言えるのか」という疑問が頭をもたげるようになってきました。

先日、ニルス・クリスティーというノルウェーの犯罪学者の話を、テレビ番組で見る機会がありました。

ノルウェーは犯罪者に対して大変手厚い処遇を行っていて、刑務所は全室個室、プライベートは守られ、服装は自由、部屋で音楽を聴くのもタバコを吸うのも自由です。より重罪を犯したものは島全体が刑務所、という所へ送られますが、快適な住宅を与えられ数人で使用して、1日数時間の労働の他は義務はなく、休暇をもらうこともできます。

そんなに犯罪者を厚遇しては、社会は犯罪で溢れるのではないか?この問いかけにクリスティー氏はこう答えます。

それは犯罪者を知らないからそう思うのだ、犯罪者はモンスターではない、人間だ、と。

ノルウェーでは100年以上前から「参審制」といわれる、市民が裁判に関与する仕組みがあり、人がいかに犯罪に手を染めていくか、それにどのように量刑を下すか、について広く一般の人々の間でも長年議論が積み重ねられてきたそうです。

その結果、犯罪の背後にある、貧困や失業、社会的孤立など、被告人の置かれた厳しい実情が明らかにされ、「ここまで苦しんできた人に刑罰を与えて、さらに苦しめる事は人道的ではない」と考える市民が多いのだそうです。

囚人を暖かく処遇するノルウェーでは、犯罪率が低下し、治安が良くなっています。

それに比べ、「厳罰化」を推し進める日本やアメリカでは、犯罪者の数がむしろ多くなっており、特にアメリカでは、成人男性の1%が刑務所に収容されており、過剰収容や暴動が社会問題化しています。

きっとノルウェー市民は、犯罪者を目の前にして、自分と彼らとは本質的に違いはなく、自分も同じような境遇に置かれたら、罪を犯すだろうと想像することができるのだろうと思います。

自分たちは無色の編み糸ではないし、彼らも真っ赤な糸ではないのです。ではノルウェー版「緋色の研究」はどうなるのでしょうか。

それは、貧困や失業の対策であり、教育の向上や移民に対する手厚い対応などが取り組むべき課題として挙げられますが、クリスティー氏は地域自治をそれにつけ加えています。

地域で犯罪が起きたとき、加害者と被害者が同じテーブルにつき、地域の人が立ち会って、どのように解決するかを話し合う。これを「修復的司法」というそうですが、この仕組みを根付かせるため、クリスティー氏は80歳を優に越える今も、地域のコミュニティーで小さな集会を繰り返して、様々な社会階層の人と話をしているそうです。

そこで彼は「地域で問題が起きたとき、それはチャンスだ。それをうまく解決できれば、地域社会の結束が高まり、人々は自信と誇りを持てる。ところが中央からやってくる法律家は、方法にしてそのチャンスをしてしまう」と語りかけます。

私は、この話はそのまま医療にも当てはまると思いました。何でも病院で診てもらえばいい、入院させればいい、という態度は、一般の人々が、健康問題に無関心であることを助長させてしまいます。

犯罪と違って、病気や死を避けることはできませんから、自分もどんな病気にかかるかは分からない、という姿勢で、もっと関心をもった方が良いのですが、「こうすれば健康になれる」ということばかりが話題にされ、病気を自分に引き寄せて考えるチャンスが、なかなかないようです。

犯罪問題に向き合わない社会は、犯罪者に対して冷たい社会です。それと同じく、健康問題に向き合わない社会は、やはり病む人に冷たい社会なのです。

健康を過剰に求める心情は、病気の不安からなんとか逃れたい、病気の事など考えたくない、病気を許せない、という思いの裏返しでもあります。

犯罪を許せない、と言っている人の中には、ひょっとしたら運良く犯罪とは無縁の生涯を送る人がいるかもしれませんが、病気を許せない、と思っている人でも、絶対に病気にならない人はありえません。

そういう人がいざ病気になると、病気の自分が受け入れられない、ということになってしまい、確かに、病気は全く恐怖そのもの、ということになってしまいます。

日頃、病気とうまく付き合ながら、人生をエンジョイしている患者さんたちを診ている私のような医療者に言わせれば、病気を拒絶し排除した形で「健康」のイメージを追い求めることは、それ自体がひとつの病気なのではないか、とさえ思ってしまいます。

病気を許せるということは、自分のありのままを受け入れることができる健全性であり、また病む人への思いやりにもつながっていくはずです。

病気を一般の人々から遠ざけたのは、医療者の側に責任があると思います。

病気の説明と言うと、病原体や遺伝子といった、狭い範囲の【原因→結果】の話が中心で、治療も薬や手術ばかりに重きを置いてきました。

その中で「素人判断は禁物」「こういう症状が出たら、すぐに専門医に相談を」ということがしばしば強調されて、一般の人々が思考停止する結果になってしまったのではないかと思います。

高齢化が進行し、医療資源が逼迫する日本において、刑務所ならぬ病院の「過剰収容」はすでに現下の課題です。

人々が安心して病気にかかることができ、苦しみや悩みがなるべく少ない状態で死を迎えられるようにするには、たくさんの人が病気になった自分を想像し、どのような支援を社会として用意しなければならないかについて、幅広い社会的合意を形成する必要があるのだと思います。

医療者も、「中央からやってくる法律家」気どりで、考えるチャンスを奪うことにならないように、「検査」や「薬」の話ばかりせずに、もっと幅広い関心をもち、温かな眼差しを、病む人に向けて、多くの分野の専門家と手を携えて、患者さんを支えるシステムを作っていく努力をしなければなりません

ホームズのような「名医」だけではなくクリスティー氏のような「かかりつけ医」こそが必要ではないでしょうか。

<インチョーより>
読んでいて同じ聖路加病院の日野原重明先生の教えと重なりました。

釈迦は古代インド「カースト制度」の背景に、人々の心に、「差別意識」という「一本の抜き難き矢」を見た!と指摘しました。

医療者は、病む人の心に寄り添い医療を提供すること、誰のための、何のために、教育・訓練されたのかを初心に戻って考える必要があると思いました。

人々が安心して病気になれる社会
との言葉が胸に刺さりました。


<参考文献>
津田篤太郎(2014)『病名がつかない「からだの不調」とどうつき合うか』ポプラ新書.