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2016年8月24日
不妊・子どもができないという相談
不妊・子どもができないという相談
「子どもは親を選んで生まれてくる」というけれど、
私は子どもに選ばれない宿命だったの?と思っている方がおられます。
スピリチュアルな観点(江原啓之さんの著作)から少しでも参考になれば幸いです。


「子どもを産めない私は、女としての役目を果たせてない気がする」という方がおられます。
何年も不妊治療を続け、流産を繰り返して、体だけでなく、心も深く傷ついている方も大勢います。
過去のカウンセリングで見てきて、子どもができないことをトラウマとして抱えている方は、本当に大勢いらっしゃいます。
「子どもはまだなの」と聞かれ、泣きたい気持ちになったこともあるかもしれません。
でも、言いたい人には言わせておけば良いのです。
そこで「どうしてこんなつらい目に遭わなくてはいけないの?」と思わないほうが良いのです。

子どもはスピリチュアルに見れば、天からの預かりもの。
親の肉体を借りては来ますが、あくまでも、子どもは預かったもので、育てるボランティアをさせてもらうものなのです。
子どもはブランドのバッグのように、持ってひけらかすものでもないし、人と比べるものでもありません。

子どもができない、という人の前世には大きく分けて二つのパターンがあります。
一つは、前世ですでに子だくさんな人生を経験していて、もう十分に子育てしてきたケース。
この場合、今回の人生では、大変だった子育てはお休みして、その時間にもっと別のことがしたい、自分の人生をゆっくりと堪能したい、という想いがあって生まれてきたのです。
子どもを持たないことを自分のカリキュラムとして選択してきた人は、今たとえ子どもができなくても、
「うちは子どもはいなくても、いろんなことがありますから・・・」と受け入れられて、どことなく泰然自若としています。

よその子どもを見てもかわいいと思えるし、子どもは欲しいけれども、できないからといって自分を責めたり、悲しいと思いつめるようなこともありません。
前世で子育てを十分してきた場合、今生では進んで養子を迎えるなど“我が子”にこだわらない子育てに目を向けることもあります。

二つ目は、前世で止むを得ず子どもと別れたり、子どもを育てる力がなかったために見捨ててしまった経験をしているケース。
そうしたたましいだからこそ逆に今生では、子どもの尊さを知るカリキュラムを選んできたのです。

また、夫や家族の面倒を見ることがその人にとっての“子育て”というケースもありました。
赤ちゃんの姿をしていない赤ちゃんが、すでにあなたの近くにいるのです。
部下が“子ども”という場合もあるでしょう。

お腹を痛めた子どもでないと我が子と思えないというのではなく、どの“いのち”も我が子として愛する。
そういう大きな愛、大我を学ぶために、あえて、子どもをもたない生き方をたましいが選んでいるということもあります。

子どもを持たないことを学びとして持って生まれたたましいもあるのです。
「あなたは子どもに選ばれて親になりました」という一節をとらえて
「私は子どもに選ばれなかったということですか?」と質問される方が時々おられます。
しかし、そういう考え方自体をしない方がいいのです。
選ばれなかったのではなく、あなた自身の学びのために、自らで選んでそうしたということ。
そこには、必ず大切な意味があるのです。

少子化の時代ですが、それは「子どもを作らない」というより「欲しいけれどできない」という人が増えていることも、その一因のように思います。
「子どもが欲しいのにできない」という前にいくつか考えて欲しいことがあります。
まず、どうして欲しいのだろうかという理由です。
もし「友達もみんな子どもがいるし、私だけいないのは寂しい」という気持ちに、
もしかしたら、それは物を所有するという考えが隠れているのかもしれません。
例えば「あの人が持っているバックが、私も欲しい」というような考えと同じようなものかもしれません。
これは、子どもができないのは、その点に気付きなさい、というメッセージなのかもしれません。
その意味では、子どもができないということにも意味があるのです。

できないという事実があれば、では私はなぜ子どもが欲しいのだろう、と深く考えるようになり、
母になるとはどういうことか、母性とは何かということについても想いを馳せるようになります。

不妊治療をしてもなかなか子どもが授からないとき、いつまで治療を続けるか迷うことがあるかもしれません。
治療には、時間もお金も必要ですし、体の痛みも伴います。
何年続けても、結果が出ないとつらいですよね。
いつやめればいいのか、どこで諦めをつければいいのか「やめどき」を決めるのはつらい決断です。

そのときまず最初に確認することは、治療にまつわるつらさや迷いも、すべて自分で選んだのだということです。
誰かに無理やり治療を受けさせられているわけではありません。
まず、その点をしっかりと再認識しましょう。
つらいけれど自分で選んだ道。そう思えば、乗り越えて行く勇気が出てくるはずです。

今は「できちゃった結婚」なども多いので「簡単にできる人は、あんなに簡単にできてイイなぁ」と思ってしまうこともあるかもしれません。
けれど、その人もまた子育てで悩んだり周囲の人の無理解に苦しんだりするもの。苦労は平等なのです。一面しか見えないと、他人がうらやましく思えてしまいます。

この世に生きている人で、負荷を背負っていない人は一人もいません。どんなに幸せそうに見える人でも、必ず何かの十字架を背負っているのです。
運のいい人とか悪い人とか、よく言いますが、人の運に良し悪しはありません。

運がいいように見える人でも、何らかの悩みを抱えて、それを乗り越えようと苦労しているし、運が悪いように見える人でも、どこかに恵まれた点はあるのです。
「私は運が悪い」という人は、ただそれに気づいていないだけ。この世は絶対的に平等なのです

たとえ子どもがいなくても、素晴らしいパートナーに恵まれているかもしれません。実際、そういうカップルはたくさんいます。あるいはやりがいのある仕事についている、という人もいるでしょう。
子どもだけが幸せの条件では決してないのです。ですから、あえて子どもを持たない、という選択肢があってもいいと思います。

「私は不幸」「私は運が悪い」と思いつめて、恵まれた点があることに気付けないのは、もったいないこと。
厳しいようですが、そういう心の有り様自体、母性とは遠く離れたものなのです。

「世間には子育てしないと、一人前ではない」と考える人もまだいますが、それは偏見にすぎません。
例えば会社で部下を育てること、学校の先生が生徒を育てること、習い事のお師匠さんが弟子を育てることなども、みな“子育て”と同じ。
また、何らかのトラウマを抱えている夫に愛の電池を充電して、大人になれるよう育てている、という人もいるでしょう。それも一種の“子育て”といえます。
赤ちゃんを産んで育てるだけが、“子育て”ではないのです。
子どもは決して親の所有物ではありません。たましいのふるさとは、親子でも違うのです。
出産とは、この世に生まれようとしているたましいに、体を貸してあげる行為なのです。
育児は、盲導犬の子どもを育てるボランティアと同じ。人間への基本的な愛と信頼を培って、社会の役に立てるようにと送り出すまでが仕事です。
そう考えれば、子育てと同じくらい価値があることは、この世にたくさんあります。子育ては、数ある「価値のあること」の中のひとつに過ぎないのです。

そう思えない人、子育て以外のことが目に入らず、子どもに執着する人は、逆に子育てでつまずきやすいのです。
自分の都合のいいように子どもをコントロールしようとして、反抗されたり、自立させるのに失敗したり、子どもが巣立った後、何も残らず空虚感に悩む「空の巣症候群」になったりしがちです。
息子を嫁に取られた、などと言って嘆く人も同じ。ボランティアではなく、自分の利益のために子どもを育ててきたから「とられた!」という思いが出てくるのです。

繰り返しますが、自分のことだけに執着するのは「小我」です。そして、小我は必ずどこかで“ゆがみ”を生みます。
不妊治療をどこでやめようか、と迷っている時は、以上のようなことを一度じっくり考えてみてください。

相談者の中には、あきらめきれずに20年近く治療を続けて、もう最後にしようと思った時に、妊娠できたという人もいました。
“20年間つらぬく”ということ、それだけの継続と努力が、その人の学びにとって必要だったのでしょう。

でもすべての人が同じではありません。それぞれ自分の思いに正直に、できるところまで治療を続けていけばいいと思います。
ただし結果を当てにするのはやめましょう。できなければ、それはそれで仕方のないこと。
でも私は出来る限りの事はしたい、かけてみたい、その思いは、まだ見ぬ子への愛情です。そういう愛があるなら続けてもいいでしょう。

けれど「もうあきらめようか」という思いが出てきた時点で、それは「違う道が目の前に来ていますよ」ということです。
その思いそのものも“ジャッジ”の基準です。

たましいからのメッセージがスッと理解できる瞬間が必ずあります。
その声にも、素直に耳を傾けてください。
宿命を受け入れることが必要なときがきたのです。

治療にかけた時間と努力は決して無駄になることはありません。
まだ見ぬ子どもを思い、母になることを夢に見て、辛い治療に耐えてきたこと。
それは、たとえ我が子を胸に抱くことはなくとも「子どもを愛した」という体験です。
その体験を通して、母性について考えたり、自分自身を見つめ直したりできたでしょう。
それこそが宝です。その学びが本物であれば、、治療に成功して出産した人には、心から「おめでとう、良かったね!」と言えるようになっているはずです。

子どもがいない人生を充実した素晴らしいものにするかどうかは、これからのあなた次第です。
今までがんばってきた自分をたくさんほめてあげてください。
そして胸を張って、笑顔で新しいステージに進んでください。

<インチョーより>
厳しくも、愛のあるメッセージが心に沁みました(落涙…)。
人は、いろいろな学びをするために、自分で課題を背負い生まれてくる…
良き出来事は、感動・感謝し、悪い出来事でも、貴重な経験として学びとしていく…
感動を味わうために、人生の課題の答えをわざと隠して生まれてくる、とも…
(Nikui-Desu-Ne!)
そう考えれば、少しつらいことも前向きに乗り越えられそうな気がしてきました。
興味がある方は、飯田史彦さんの「生きがいの創造」(PHP)もお勧めします。
折に触れてご紹介できればと存じます。

<参考文献>
江原啓之(2006)『スピリチュアル・ジャッジ』王様文庫.
      (2009)『トラウマ〜あなたが生まれてきた理由〜』講談社.